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2017年7月31日 (月)

『国勢調査推移集計』最初の国勢調査、大正9年から平成27年までの国勢調査を辿ると時代の変化が一目瞭然-昭和20年の国勢調査は実施されませんでした

1941年に閣議決定された人口政策確立綱項に基づく スローガン「産めよ増やせよ」で人口が急増していく状況がさらに継続しているので、この状態は太平洋戦争前まで続きます。それが戦争で一変します。まずは戦場に若者が出征します。太平洋戦争は戦死者も多く出ました。20代から30代を中心に人口減少が発生しました。人口ピラミッドに現れるように人口構成が歪になってきます。終戦後、帰還した人々は一斉に子作りに励みます。「富国強兵」というスローガンは人を生ませて殺す為のキャッチフレーズだったのですね。

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だから昭和15年までの国勢調査はすべてキレイな三角形の人口ピラミッドが表れます。1人の女性が生む子供の数が3人を超えていた時代です。国勢調査が始まった大正9年から下がり始めたようですが、それでも生む女性の数が増えてもいますから、当然、その子供の数も増えていきます。そのピラミッドが歪になったのが太平洋戦争であり、その後の産児制限です。「富国強兵」を目指すために「産めよ増やせよ」と国民を陽動した罪は重いのです。「由らしむべし知らしむべからず」という声が聞こえてきそうな気配です。

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戦争が終わりますと日本人の人口構成は様変わりします。戦争で命を奪われた働き盛りがいなくなりました。何の為の戦争だったのでしょう誰のための戦争だったのでしょう。国民の命を、それも働き盛りの命をこれほどまでに傷つけてしまって、取替しようのない時代を作ってしまったのです。

終戦のとき、昭和20(1945)年は国勢調査年です。天皇が8月15日に終戦の宣言を国民にした、1ヶ月半の10月1日にちゃんとした国勢調査など出来るわけはありません。現在、国勢調査データとして使われているのは、戦時下の昭和19年から始めていた人口調査に国内にいた軍人軍属の数を加算して集計して出したものだそうです。遅ればせながら本格的な国勢調査は2年後の昭和22年になります。

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私の個人的な体験ですが、戦後普及したペニシリンは日本人の命を伸ばしました。お尻に注射するので痛いのなんのって・・・。子供の頃、往診に来てくれた田村先生の太い顔が未だに印象に残っています。あの先生、専門は耳鼻科だったようなのですが、内科もやっていたようです。医師不足の時代なんですね。そんな動きがその後の長寿社会を作っていくのですね。

2017年7月30日 (日)

『国勢調査推移集計』最初の国勢調査、大正9年から平成27年までの国勢調査を辿ると時代の変化が一目瞭然-満州事変の昭和6(1931)年は日本が中国に戦争を仕掛けていく時、軍人も運ばれていった

昭和6(1931)年に満州事変が起こって、昭和12(1937)年には中国との戦争に発展する盧溝橋事件が発生します。どちらにも若い軍人が運ばれていきます。行きたくもないのに行かされる気分はなんとも例えようのないものだったでしょう。昭和10 (1935) 年-昭和5(1930)年コーホートには20代男子の出征がはっきり現れます。2師団の派遣ということから5万人規模の兵隊が送られたと思うのですが、コーホート結果とも適合する規模でした。日本軍はこうした事変や事件の度に軍人を派遣して前線基地を作っていったのです。たまらないのは侵略される方でしょう。

当時の平均寿命は男子が50歳くらいだから、50歳を超えたあたりからどんどん死んでいきます。それにも増して新生児の死亡率が高いので、多産が尊ばれ出産時の女性も多く死亡しました。これは大正9年から昭和5年までのコーホートによく表れています。「多産多死」それが新生児のみならず女性の運命でもあったのです。子を設けるのも命がけです。現在では医療の発達で出産時に母親が亡くなるという話は殆ど聞きません。もちろん乳児死亡率も当時とは比較にならないほど減りました。当時は老人の死亡率より多くの新生児が亡くなっていたのです。今から思えば穴の空いた器にせっせと水を組み入れている感じがします。命の大切さが軽んじられるのもこのせいかもしれません。

やはり医療は重要です。当時は乳児の3人に1人は亡くなっていたのです。医療の発達は乳児や幼児の命、そして何より母体を守るようになりました。そして高齢者を長寿にしました。男性の平均寿命は50歳から80歳に30年も伸びました。そろそろ高齢者の定義を変えてはどうでしょうか。例えば昭和35(1960)年の平均寿命が65歳の時の定年年齢が55歳だったので、平均寿命まで10年の開きがあります。言わば引退生活は10年だとすれば、今の高齢者は70歳まで働くことになります。私の場合はあと2年で定年になり、まあまあいい頃合いだと思ってしまいます。年金も人によりますが、70歳過ぎてから手厚いのがあっても良いのかもしれません。

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2017年7月29日 (土)

『国勢調査推移集計』国勢調査最初の大正9年から平成27年までの国勢調査を辿ると時代の変化が一目瞭然-移民政策はあるにしても大正9(1920)年から大正14(1925)年のコーホートで25~29歳に至る男子の転出が極めて少ないのは(・・?)

移民政策は世代にまんべんなく現れるのに、何故か大正14年到達年齢の25~29歳のみが極めて少ないのが気になります。大正9(1920)年には20~24歳という年齢層はまさしく軍隊であり兵隊であったので、その転出が抑制されたという事になります。その5年間に起こったことはどうも軍縮のようです。

第一次世界大戦後、世界は国際協調の気運が高まります。それに伴い軍備縮小への動きが進みました。大正11(1922)年にはシベリア派遣軍撤退や陸軍では「山梨軍縮」が進行します。大正14(1925)年5月には四個師団廃止を軸とする「宇垣軍縮」です。明治維新以来創り上げてきた軍国日本の勢いも少し和いできたのかもしれませんが、一方で大正12(1923)年、北一輝の「日本改造法案大綱」ではオーストラリアとシベリアを戦争によって獲得することなどを求め、この主張に感化された若手将校たちによる二・二六事件が発生しました。

日本では相変わらず軍国主義が台頭しているので丁度、軍隊に志願する世代についてのみ海外から撤退する流れの中で派遣が減少したというコーホート結果になったのです。日本の軍人年齢は20歳から徴兵検査があったようですから、兵隊としては20代が中心の世界だったのです。それが大東亜戦争では40歳を超えて徴兵されるなどあったのですから、大正時代はまだまだのんびりとした軍隊だったのだと思います。

そんな平和ボケの日本に大正12(1923)年9月、関東大震災が襲来するのです。日本人の心をピリリと刺激するには、時代はうまくできています。井戸に毒を入れたという噂がながれ、朝鮮人が悪玉化されて虐殺事件が起こるさまは、日本人が国際的ではなく朝鮮人を蹂躙していたことが理解ります。明治以降の戦争を重ねて、統治していた朝鮮人や中国人に差別意識を持っていた証拠でもあります。

このコーホートには関東大震災でなくなった方々も当然入っているわけで、国勢調査が始まった初期の段階で実態調査としてのその役割も顕在化したのではないでしょうか。関東大震災の死者・行方不明者は約10万5千人だとのことですから、コーホートグラフにも満遍なく反映されていることになります。

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2017年7月27日 (木)

『国勢調査推移集計』国勢調査最初の大正9年から平成27年までの国勢調査を辿ると時代の変化が一目瞭然-まずは大正9(1920)年から昭和15(1940)年は日本が台湾、朝鮮、中国を侵食しつつある時代

大正9年は第一次世界大戦の結果、西欧諸国の植民地支配から離脱して民族主義が高揚した時代です。日本もドイツが支配していた中国国土を奪って、アジアの手に戻したという自負を抱いていた時代です。実のところは漁夫の利的な参戦で弱体化したドイツを追い払い、自分のものとしていった歴史ですが、大東亜共栄圏を自負していた日本にとっては「奪い返してやった」という思いも強かったのでしょう。

当時、日本が統治していた時代 (1895-1945)台湾はまさに日本の国土としての政策や投資を投入していました。日本よりもきれいに計画された都市形成は新しい国土づくりに当時の叡智や資力を注ぎ込んだ様子がわかります。鉄道敷設にしても産業としての砂糖工場、農業生産拡大のためのダムづくりなど日本ではできないようなダイナミックな政策で新国土を開拓していった歴史が見えます。そのことが現在の日本人と台湾国民の間を結ぶ強いきずなとして生きているのです。

台湾統治が単なる統治の時期から内地の延長線上で開発しようという動きが台頭していきます。嘉南平原に広がる荒れ地に大規模ダムを建設して広大な耕地に変えようという取り組みです。その烏山頭ダムは1920年に着工し1930年に完成しました。それを1455平方キロの灌漑用水として活用して台湾の国土を潤したのです。台湾で最大規模の農水施設で「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼びます。計画は日本人技術者の八田與一により策定され、嘉南平原の農業灌漑を主目的として建設されました。常に日照りや豪雨さらには排水不良に悩まされてきた平原は台湾随一の農耕遅滞へと一変したのです。今もなお、日本人技術者八田與一の銅像と八田夫婦の墓石が烏山頭ダムを見下ろす木陰に安置されています。

同じようにとは思いませんが、朝鮮半島の統治と満蒙開拓や中国への侵略など、時代はまさに日本国土から大挙してアジア地域に進出する波が押し寄せていたのです。コーホートを観ると男女ともに国土を離れていった様子がわかります。満蒙開拓団は『1932年(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、14年間で27万人が移住した。[ウィキペディア]』とのことです。「五族協和の王道楽土」と「満州国」建国の際の理念を掲げ、「五族協和」と日本・朝鮮・満州・蒙古・支那の五民族が協力して平和な国造りをすると放言してアジア的理想政治体制(王道←→覇道)に基づいて理想国家(楽土)を建設する「王道楽土」を唱えたのです。良識のある人は気恥ずかしい気分だったろうと思うのですが、当時私が生きていれば、簡単に国の統治に迎合していたでしょう。

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2017年7月26日 (水)

『国勢調査推移集計』最初の国勢調査、大正9年から平成27年までの国勢調査を辿ると時代の変化が一目瞭然-まずは大正9(1920)年の状況

国勢調査が始まった大正9年はとにかく多くの子供が生まれるのですから、子沢山で生活を支えきれない人は移民を選んだりする時代です。まだまだ日本は貧しくて農家も含めて貧困でした。明治から大正に入り富国強兵的な国民の意識も緩んできます。都会では「モボ」「モガ」と『モダン・ボーイ』『モダン・ガール』を略して呼び立てて銀座あたりを闊歩していたハイカラ族もいて、大正7年の第一次世界大戦終決にも漁夫の利的な戦果を上げていたので都会では日本の幸運に浮かれていたのです。しかし殆どの若者は貧しかったのです。

大正9(1920)年の死亡率は25.4%と高く、新生児の死亡だけではなく出産時の母体の死亡も多かった。男は戦死して女は出産で命を落とすことが状態化していた時代です。特に1918年から20年まではインフルエンザの世界的な流行(いわゆるスペイン風邪)があり、日本でも高い死亡率を示しました。また、栄養状態も悪く若者には結核などの伝染病が蔓延して、水や食物の衛生環境も悪く赤痢などの胃腸炎も多く発生して主要な死亡原因になっています。国勢調査が始まった大正9(1920)年頃には死亡率がピークを迎えていたようです。スペイン風邪が猛威を振るっていたことがグラフを観るとよく理解ります。

死亡率だけを観ると太平洋戦後アメリカから栄養補給食品や医療技術、医薬品が入るようになり死亡率は極端に減っていきます。昭和54(1979)年前後で6.0%まで減り、2014年では10.1%になっています。最近の死亡率の増加は高齢化の影響です。高齢者が増えれば死亡率は上がります。ちなみに大勢いる高齢者の死亡率に対して出生率が8%代なので当然、人口は減っていくことになります。人口減少時代の始まりだというのはこうした理由です。

振り返って大正9(1920)年の人口ピラミッドを観てみますと高齢者をピークに山形になっています。明治以降の富国強兵策は永続的な人口増加を前提として政策を重ねました。毎年のように子供が増えていく人口ピラミッドが生まれました。いまでは考えられませんがそれが日本の姿だったのです。江戸から明治に移り、欧米列強の覇権国家に伍して行くためにも日本国民を叱咤して強い軍隊を形成することが絶対の道であると信じていたのです。

「戦争が正しい行為」という概念が国民を支えていたとも言えます。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と勝ち戦が続くと人間は盲目になっていくのです。余りにも日本は新しかったのです。経験のない若造は失敗を繰り返します。仕方ないことなんですね。

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2017年7月25日 (火)

『東京都住民基本台帳人口移動報告 平成28年』東京都内の人口移動推移を観る—周辺からの「都心回帰」ではなく東京都区部への全国からの「都心帰依」ではないか

都心への人口の流入は全国に広がっていて、基本的には「日本人は東京都心に集中している」のです。あたかも「東京」というブランドに帰依している信者でもあるかのように都心へと人は集まり続けているのです。だから「都心回帰」ではなく「都心帰依」と揶揄してみたくなったのです。地方から都心への動きは基本的に都市部に人が集まっていく現象と同様です。中でも最も人口の多い場に群がってくる現象を「都心回帰」と呼んでいるのです。人は独りでは生きていけません。だから人がいるところに群がります。それが人間性だし本性です。人が都市に集まるのを抑制はできません。

とはいえ「だから地方が衰退する」というのは間違いだと考えています。大都市への人口集中で、むしろ地方の魅力が冴えても来るのです。都会は賑やかですが田舎は静かです。日本の田舎は安全ですから、人の居住も安心なのです。唯一無二な地方が生まれ、リゾート基地やリタイアメントビレッジが生まれたりします。東京からは山梨県や長野県にリゾート気分でリタイアした身体を受け止めて貰おうと、60代の転入者が増えています。県全体としては東京への転入過多ではあるのですが、世代を限れば転入者も多いのです。

私の友人は東京を離れて静岡県や千葉県にも移りました。長野県や山梨県で生活を始めた人もいます。大都会から離れていくもの、大都会に憧れてくるものなど多様な行き来が都市と地方、都会と田舎をつくります。私は四国の香川県で育ちました。最近、高校の同窓会をするとの連絡が入り、香川県の同級生から電話が入りました。あいにく参加はできなかったのですが、都会から田舎に居を求めて帰省した同窓生が集まっていました。もちろんもともと地元で活動しているメンバーも居るのですが、地方は人の繋がりが豊かだなと感じた次第です。

さて日本全国からの転入状況を概観してみると、殆どの道府県から東京都心部への転入過多がみられます。ただ1県のみ東京都心に反旗を蒜がしている県があります。別に東京嫌いではないのでしょうが、都心から転出している人の方が多いという県です。それは沖縄県です。年によっては区部への転入超過もなくはないのですが、概ね沖縄への転入が勝っています。これもまたリゾートなのでしょうか、それともリタイアメントビレッジ志向なんでしょうか。基地問題で国と反駁していることが原因でしょうか。景気が悪くなると沖縄に逃げているという感じもしますが・・・。

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2017年7月24日 (月)

『東京都住民基本台帳人口移動報告 平成28年』東京都内の人口移動推移を観る—「都心回帰」は東京都区部への全国からの移動が主因ではないか

実態をよくみると「都心回帰」ではなく「都心帰依」なのかと思わせるデータが見えてきます。都心とは23区だと仮定して、都心回帰現象を全国レベルで見てみると都道府県との人口移動状況が解ってきて面白い。そもそも「回帰」とは元の状態に戻ることだから、出ていった人が戻ってくれば良いのですが、都心から隣接3県などに拡散、つまりスプロール化した人口が都心部、すなわち区部に戻ってきているのではないことが理解ります。つまり「都心回帰」がすなわち「出ていった人が戻って来ているのではない」ことが解ってきました。

まずは隣接3県に目を向けましょう。まずは埼玉県と東京都区部の転入転出の差、転入超過者の推移を見てみるとバブル期に年間3万人をピークに転出過多が続いたのに、都心回帰の転入は年間4千人がピークで、最近では転出過多になっています。千葉県や神奈川県も転出時は1.5万人規模だったものが、転入ではせいぜい8千人がピークというオーダーです。つまりスプロールした人口が戻っているのではないのだということが明確になりました。

首都圏からの転入が都心回帰の原因だとすれば、人口増加の人々はどこから都心部に来ているのでしょう。最近の区部への転入超過は毎年6万人規模になっていますから近隣3県の1万人を除すると5万人がその他の都道府県から転入していることになります。そこで参考までに関西を代表する京都府、大阪府と兵庫県との関係で人の移動を観てみます。そうすると東京都心部、つまり区部への流入は常に流入過多が継続していたことが理解ります。関西圏からはバブル崩壊で移動の勢いが弱まるものの関西の拠点都市でもある大阪府から東京都心部への流入は継続しています。それも年間7千人という年もあり、兵庫県は4千人、京都府は2千人というように常に東京都心部への転入超過が続いているのです。リーマンショックの一時的な減衰はあるものの東京一極集中という加速度を上げるような動きが続いています。

こうして関西の3府県と東京区部との関係だけをみても、継続して東京区部への転入過多が継続しているのですから、それ以外の道県からも転入超過が続いていると思えるのです。次には全国からの転入状況を探ってみたいと思います。

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2017年7月23日 (日)

『東京都住民基本台帳人口移動報告 平成28年』東京都内の人口移動推移を観る—都内での移動で見ると都心回帰は部分的

都心回帰が叫ばれているのですが、区部と市町村部との人の移動は、バブルによって東京から離れていた人々もようやく平成17(2005)年あたりから流入していて、リーマンショックで一時減衰するものの概ね3000人から5000人程度の流入超過で推移しています。全国から東京都に集まる5万人から10万人規模の人口規模と比較すると、区部にとっては年間0.04%から0.06%程度の移動で、市町村側から見ても大した動きには見えないのです。あえて「都心回帰」というのですから市町村部との関係も重要だと思うのですが実態はどうなっているのでしょう。

確かに区部の千代田区の場合は、人口がボトムだった平成12年に比較して平成29年は1.45倍に伸びているし、中央区は平成9年ボトムに対して1.99倍にもなっているので、それだけをクローズアップして診てしまうとまさに「都心回帰」そのものだと言えます。さてその「都心回帰」の言葉の裏には「嘗ての人口が戻った」という認識もあるのです。実は都心はバブル経済が発生するまでは住みやすく、人が集まっていました。それがバブルの狂乱的な地価の高騰と地上げ屋の暗躍で郊外に住まいを移した人々が多くいます。たとえば千代田区は昭和60年では57,299人でしたが、平成12年には39,397人まで落ちました。そこから都心回帰が始まります。毎年人口を伸ばして平成29年には57,123人になりました。これは日本人を対象として集計したものですから外国人は入っていませんが、基本的には昭和60年の人口規模に戻ったことになります。

ただ、湾岸などの埋立地を持つ中央区は伸びています。晴海や勝どきの超高層は人口増加に貢献しています。同様に港区や江東区も伸びているので、都心回帰という現象は湾岸タワマンの影響と千代田区や文京区などの再開発系に二分されるようです。こうした人口はどこから来たのでしょう。東京都内での移住もあるでしょうが、意外と区部と市町村部との移動は少ないのです。やはり都心には隣接3県や全国からの転入者が都心回帰と言うか都心集中を行っているという実態が見え隠れします。

もちろん世界からの人口流入も顕著です。最近の外国人の推移ですが間違いなく国際都市になっています。今後もこの推移は続くと思われますので、東京という独自の個性を持つ都市は今後も世界から多様な文化を取り入れてインターナショナルシティとして花開くのではないかと思われます。

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2017年7月22日 (土)

『東京都住民基本台帳人口移動報告 平成28年』東京都の人口推移を近県3県との動きで観てみよう-3

戦後、東京は大空襲を受けた。そして戦災復興計画が立てられる前に被災地には思い思いのバラック建てられ、仮説住居が並び、焼け跡の暮らしを支え始めていた。戦災復興事業は遅々として進まないもので、駅前には闇市が並び人々の営みが混沌とした市街地を形成していました。次第に人口も増加していきました。社会は不安を抱えながら生きる息吹を感じつつ、庶民は暮らしをつくり始めていました。

戦後すぐには東京への流入を制限したものの、次第に流入人口は増えていき、戦後10年頃には流入人口もピークを迎えていました。まだまだ人々は東京を目指して流入するのですが、都内はパンク状態です。昭和33年(1958)年頃には隣接3県への流出人口が上回ります。また、昭和41(1966)年頃には東京都以外の

地域との出入りも限界が来て、東京の人口増加が抑制され始めます。

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都内に流れ込む人口より次第に隣県に移住する人口が増え始めます。つまりスプロールし始めるのです。この間、東京都の人口は増え続けていますが、引きも切らずに全国から人口が流入しますが、溢れた人口は隣接3県に流れていきます。ピークはオイルショック前までですが、3県流出にはさらに山が見えます。つまり3県を超えて溢れ出した人口の流出が山梨県、群馬県、栃木県、茨木県まで首都圏域の拡大が始まります。つくばニュータウンや龍ケ崎ニュータウンなど首都圏は拡大していきます。

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現在、都市の縮退が議論され始めています。人口減少社会に入った日本がどのように縮退するのか。引き潮時代に都市がどのように変容していくのか、首都大の饗庭 伸教授の著書で「都市をたたむ――人口減少時代をデザインする都市計画」が読まれていますが、うまくたたんでいければ良いのですが、そう簡単ではないようです。郊外の戸建ての大規模団地に空き家が増えると、一挙に物騒になります。安全安心はすべて人がいての話です。人がいなくなる街は滅びます。

2017年7月21日 (金)

『東京都住民基本台帳人口移動報告 平成28年』東京都の人口推移を近県3県との動きで観てみよう-2

時代は安定期に入っています。高齢化社会という捉え方もあるのですが、定住化が進んでいてむやみに移動しないのが現代の特徴です。2000年あたりからそれが顕著になっています。住み替えるとしても同一地域での移動です。多摩ニュータウンなどはその典型で、バス便の戸建て住宅地から駅前のマンションに移ったり、広いマンションを売却してコンパクトな住まいに移住するケースが増えてきます。特に高齢者が一人になった場合など高齢者専用の住宅に家財を整理して入居します。そこをリノベして若いファミリー世帯が購入するのです。

今や新築住宅ではなく中古市場も発達してきましたので、良質な中古物件も様々あります。安く買ってリノベで気に入った住まいで生活する人は増えています。管理は戸建てよりマンションが楽です。団地では管理組合活動が積極的ですし、民間マンションならば管理会社が至れり尽くせりです。以前のように転勤などの話も多くなく、地域限定の就業システムもある時代です。定住化の選択もますます増えてくるのだと思います。

今後、定住化が進めばどうなるかを考えてみましょう。「住めば都」という言葉通り、育った環境で親元にい続けるという選択もあります。何も無理をして親元を離れる必要もないという意識が広がっているようです。「末は博士か大臣か」というような野望も持たず、地方の役所勤めで終われば幸せだと思う人も増えています。「いやいや地方でも都会以上にビジネスができる」と思っている人も増えています。混雑した通勤電車に揺られるのではなく、自家用車で近くの農園や製造工場で働くという選択もあるのです。

もう隣接3県との人口の出入りがバランスがとれてから20年近くが経過しています。果たしてこのまま行くのでしょうか。今後の東京への転入者は居住地としてどこを選ぶのでしょう。都心の湾岸でしょうか、それとも23区のマンションでしょうか、いやいや多摩ニュータウンなどの人工都市でしょうか、世田谷などの渾然一体とした市街地でしょうか。それを決定するのは首都圏直下型の大震災の発生だという予感がします。原発事故でも9万3千人(復興庁 平成29年6月30日)という人が移動しました。届け出のない人も含めれば10万人以上でしょう。関東大震災も死者・行方不明者は約10万5千人と報告されています。

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2017年7月20日 (木)

『東京都住民基本台帳人口移動報告 平成28年』東京都の人口推移を近県3県との動きで観てみよう-1

国勢調査と住民基本台帳との特徴についてはすでに読者は認識しておられるとは思いますが、改めて違いを整理します。まずは住民基本台帳ですが住民票の集計ですから、出稼ぎの多い時代や戦争などで兵役に出たり社会が混乱している時代には現状の人口を把握しにくくなり、実態上の人口を把握できなくなります。それに対して国勢調査が現状の人口をダイレクトにつかむという特徴があります。しかし、国勢調査は5年毎で悉皆調査という手続きを減るため、集計に時間がかかるというデメリットもあります。地域経済や社会が安定している時代には住民基本台帳のみでも人口センサスは掌握できるものです。だから「東京都住民基本台帳人口移動報告 平成28年」についても国勢調査よりも詳細な特徴を示す指標になると思います。

東京への人口集中を詳細に掌握するには住民基本台帳が有利です。月ごとの動きや毎年の動きもわかり、微妙な動きも見て取れます。特に近隣3県の動きは首都圏という一括りで表現される場合もあり、密接に関わっています。東京には全国から人口が集中するのですが、その人口が分散して行く先は近隣3県になります。だから埼玉県、千葉県、神奈川県の場合には首都圏としての人口プールの単位でもあり、都心からスプロールする県でもあります。またスプロールそのものは同心円ではなく交通利便性に制御された衛星都市との関係で市街地の伸びがありますが、それが連担して大都市圏域となります。

3県と東京都の戦後の人口移動状況を概観すると、オイルショックが発生するまでの間、日本の景気は右肩上がりで東京には金の卵たちが挙って転入してきました。必然的に東京を溢れた人々は隣接3県に移動します。郊外に宅地分譲が大規模に行われて、特に埼玉県は集団就職で東北から来た人々には馴染みがあるのか移転しやすいのかもしれません。神奈川県は沿線鉄道も発達しているので早くから移住していましたが、丘陵開発が主でその規模は少なくなります。そして最後は千葉県です。遅ればせながらと住み替え需要も増してきたようです。それがオイルショックで止まります。狂乱物価で住宅価格が高騰して住宅が売れなくなります。必然的に住み替えも緩やかになっていきます。

やがてバブル経済が始まります。すると人々は住宅取得に走ります。「生涯持ち家は無理だ」とも思わせるような報道に操られて一喜一憂が続きます。今でもバブルの後遺症は住宅ローンという罪な負荷をサラリーマンに押し付けています。運良く退職金で残債を支払い終えれば良いのですが、35年ローンという呪縛から逃れられない世帯も多いのです。その後、スプロールは治まります。バブル後の動きは多少の転入過多の中で推移しています。高齢者が増えていく時代になっていますので、もうドラスティックな住替え騒動は終わりを告げるでしょう。定常型社会の始まりのようです。

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2017年7月19日 (水)

『国勢調査推移集計』東京都の人口推移をコーホート推移と照らして時代の動きを見る-その9

【2020年-2025年】というオリンピック後を占ってみましょう。湾岸がオリンピック村になるというなかで、タワマンが林立して海外の資金が流れ込んでいる状況が止まるのかもしれません。あるいは首都圏震災に見舞われてとんでも状態に陥っているかもしれません。いずれにしても世界から集まる観光客などを期待した人々も一時の祭りが終焉するので引き潮のように減衰していきます。同様にタワマンに大金をはたいた人の集まりも減退するでしょう。

戦後、東京への人口流入は続くのですが、あまりにも膨れすぎた人口は周辺にスプロールしていきます。ドーナツ化現象という言い方もされていますが、市街地が安価な土地を求めてひとっ飛びして市街化すると中心部から観るとドーナツのように市街地が広がることを言います。千葉や埼玉に大規模な住宅団地が生まれて都心部からの移住が進んだ時代です。丁度、オイルショックの狂乱物価が発生するまでは好景気で郊外に宅地開発が雨後の筍のように生まれました。ミニ開発も畑を食いつぶすように発生して、あまりに小さな敷地で建売をするので、国も遅まきながら100㎡の敷地を単位に課税額を変えてミニマム化を防止しました。

その後バブル経済までは経済的にも安定期で、バブルで人は動きます。一時的に転出者が増えるのですが間もなく安定期に入っても首都圏だけは転入増が続いていくと考えられるのですが、オリンピック以降の人口増減は停滞する可能性もあります。ただ世間で言われているように「東京も人口減少社会に突入」とはならないと考えています。東京は多様性を持つ世界の拠点都市として、世界の人々が集まる場になると考えています。東京都市圏は世界一の人口規模を有しています。その潜在価値がさらに磨かれて行くものだと考えています。

時代は定常社会に進むと想定しています。経済も地域循環でドラスティックな人口移動はもはや無いと思っています。もちろん震災や富士山の爆発など天変地異には想定外のことがあり、なかなか不安定な環境が漂っていますが社会そのものは安定社会に進むのです。それは高齢化というキーワードからも言えそうですが人は定住を望み、一部の人のみは高みを目指して湾岸に移動するのでしょう。次第に一部がとんがった格差社会に入っていき、収入格差に併せた住まいが求められ、流動資金に余裕のある世帯は都心の賃貸、庶民的な世帯は安価な持ち家を求める時代になるのでしょう。

グラフ的には【2005年-2000年】コーホートに近似ではないかと思います。学生の流入はあるが他の世代は流入流出均衡して安定して定住化が進み、高齢者は自然消滅するか地方に移住しているパターンです。東京への移動状況も毎年の振幅は小さくなり、総数も減少を辿るでしょう。

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2017年7月18日 (火)

『国勢調査推移集計』東京都の人口推移をコーホート推移と照らして時代の動きを見る-その8

2020年の東京オリンピックまではまだあるのですが、まさにオリンピック景気が動いている期間が【2015年-2020年】になります。労働市場が売り手市場で地方から東京への労働人口の一時的な動きはあるものの地方も人手不足という状況から必ずしも首都圏優位という状況ではないでしょう。むしろ地方の豊かさに気づいて移住意識が芽生えているのが今の若者です。就学や最初の就職などで東京を視野に入れている若者も一時の東京での生活になれると必ずしも評価は高くなく、地方への帰省が人生を決めることにもなっているように思います。

人口の移動について占うのには社会の変化が大きく影響するのだと思います。今後の日本社会がどうなって行くのかを見通すことも必要になります。とはいえ【2015年-2020年】の推移は2020年のオリンピックまでの期間です。今が2017年ですから、あとの3年がどういう年であるのかを予想することになるのですが、大きくは変わらないようにも思います。東京はオリンピック景気が始まっていますが、人がそれによって集まっているとは思えません。建設業にしても機械化しているので出稼ぎで人口が増えるほどの規模ではないでしょう。湾岸のタワマンもそろそろ価格的にも限界に達しているので人口増加がさらに伸びるとも思えません。だから2020年までの動きは【2010年-2015年】と同様な動きになりそうです。

平成10年以降、東京への流入人口と流出人口は安定期に入っているように思います。大都市圏への人口集中傾向は継続していて、とくに首都圏への流入は一定のトレンドで続いています。日本全体で人口減少社会に移行しているので首都圏でも人口減少するのだと言われていますが、私はそうは思いません。人口は拡大拡散をした人口増加時代からコンパクト化する時代に移ってくるのですから、大都市でもコンパクト化しつつ人口は集中するのです。その場合に、大都市圏に人口は集約されるのですが、東京首都圏のみが一極集中という状況を作り出すのです。

今後、東京オリンピックの開催に都心部の再開発、さらにはリニア新幹線の開通や環状道路の整備など、東京圏を取り巻く環境整備の動きは必然的に東京一極集中を作り出すのです。かといって嘗ての人口増加ではありません。地方の良さも都会の良さも心得た日本国民が居住の場を選択するようになります。大都市でも良い、地方で畑を耕すでも良い。その時にまばらに広がった市街地では宅地を整理して新たなコミュニティを産み育てることにもなるのでしょう。多様な生活が生まれるのだと思います。人々の住まい方やコミュニティのあり方にも多様性があるのだと・・・。

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2017年7月17日 (月)

『国勢調査推移集計』東京都の人口推移をコーホート推移と照らして時代の動きを見る-その7

2013年9月8日に東京オリンピックが決まった途端、湾岸のマンションは高騰します。価格が鰻登りでとても庶民には手が出せないマンションバブルです。それに中国マネーなど日本の不動産投資に外資の投資が明らかになってきます。かといって海外からの移住者が急速に増えるということはないので、むしろ価格の上昇に庶民は購入を抑えます。つまり都心部での限定的なマンションバブルの到来です。

理想な庶民は都心の新築ンションではなく中古市場を選び、新築ならば価格の安定している郊外に居を求めます。多摩ニュータウンでも日本最大の建替事業である640戸の諏訪2丁目住宅二丁目住宅が1,249戸のブリリア多摩ニュータウンに蘇りました。組合施行で低価格なマンションは完売続きで新しい街が登場しました。そこには庶民の暮らしがあります。同じ頃駅前の未利用地に民間のマンションが供給されます。一戸建てに住む高齢者が住み移ると、空いた戸建てには若い子育て世代が入居します。まさに住まいの世代循環が行われているのですが今のうちかもしれません。やがて空き家が増加することになるかもしれないという不安が過ります。

【2010年-2015年】は一部の都心回帰は残っていますが、広がった首都圏の中で多世代が循環する時代に入りました。世帯数の伸びも緩やかになり、中古価格の下落は多くの世帯に持ち家を可能にしました。多摩ニュータウンでも60㎡600万円でリノベーションの500万円を投入すると1100万円で気にいったマンションが手に入るという環境も揃っています。まさに循環社会に入っているのです。

こうなると人の動きも緩慢になります。東京には若い学生や新卒者などは転入してきますが、子育て世帯は安定した生活を求めて動かず、高齢者のみは最後の地を求めて移住するというスタイルでしょうか。社会が安定した証拠かもしれませんが、アベノミクスの効果は安定社会の構築にあったのかもしれません。欠して右肩上がりの経済成長を望んでいるのでもないし、お金よりも生きがいを求めて老若男女を問わず、小さなしあわせを求める時代に入ったのかもしれません。

2015年-2020年のコーホートがどうなるのか、予測してみたくなりました。これには2020年のオリンピックが影響しそうですが、まもなく中国マネーも落ち着くでしょう。だからといって東京に人口が急増するのではなくマネーゲームの世界ですから、恐らく今後も首都圏内での人口循環が継続して、次第に首都圏が絞られてきて、一方で地方に分散している人口移動になるのかなと思います。さてさてどうなりますか。

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2017年7月16日 (日)

旅日記 デンマーク コペンハーゲン「市役所前広場」

55°40'33.1"N 12°34'08.1"E

写真を観て、これが何かを言い当てる人は大したもので、にわかに信じられないものが立っていた。コペンハーゲンの市役所前広場に設置された簡易型4人分の「小便器セット」である。タンク内蔵型で独立して立っているものだから容易に移動可能。そもそも日本人的には「厠」というのは隠れてするもので白昼堂々広場に晒すものではない。

そこはバイキングの血を彈く民族。蓋の付いたビールグラスを傾けて豪快に煽る飲みっぷりは男社会の伝統なのか、ションベンまでもワイルドで開放的な風景である。2010年6月25日金曜日の夕方、日本対デンマーク戦の当日、コペンハーゲン市役所広場に人々が集まり始める。これからワールドカップで日本が勝つのである。そのイベント会場の一コマ。ここに来たデンマーク人たちは大いに落胆してションベンを垂れるのである。

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2017年7月15日 (土)

『国勢調査推移集計』東京都の人口推移をコーホート推移と照らして時代の動きを見る-その6

【2005年-2010年】は2009年9月の民主党政権の誕生ですが、いよいよ都心回帰は本格的になります。湾岸のタワマン人気はピークに達しますが、折からの北京オリンピックなどの外需もあり建設費の高騰でマンション価格そのものが高くなり売れなくなってきます。それも2008年のリーマンショックを受けて株価が急激に落ち込みます。世界金融恐慌の始まりだと不安が過ります。住宅を買うどころではなく、みずからの資金を守ることに気持ちが奪われます。そしてさらにデフレが進みます。

都内23区のマンションの平均価格も2005年2006年と購入しやすい価格に落ち着くかに思えたものが2007年に急速に上昇して2008年にかけてピークを迎えます。そしてその後のリーマンショックはマンション価格を再度落ち着かせます。その間、新規供給マンションは少なくなったのですが、中古物件や売れ残り物件は売れたのです。2009(平成21)年10月度のMarket Watch月例速報では「中古マンション・中古戸建住宅取引とも2割台の大幅増加」とのタイトルが踊ります。それも8ヶ月連続で二割を超える大幅な増加だと記されています。新築マンションの供給量が少ないことから更に加速度的に中古マンションが流通したのでしょう。

幸いリーマンショックに拠る株価変動も長くは続きませんでした。2010年には実質経済成長率が4.2まで上昇して行きますが住宅ローンを組める20代30代40代の東京への流入は中古市場を活用して顕著に現れました。2005-2010年のコーホートではリーマンショックまでの期間に東京に転入した世代が浮き彫りにされました。いままでなかった25歳から49歳までの年齢階層に顕著な増加が観られるのです。

特に新築マンション価格が高齢化による人材不足や湾岸などを含む都心の再開発などで建設市場が活性化していて新築マンション物件はなかなか供給されません。そこに在庫が豊富な中古マンション価格が急速に顕在化してきて購入しやすい価格帯で市場に出るものですからリノベーションして住むニーズも増えてきます。時代は少しずつ中古住宅を受け入れる社会になりつつあります。それが都心回帰の起爆剤でもあったことが20代から40代にかけてファミリー世代を中心に増加が顕著になっています。

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2017年7月14日 (金)

『国勢調査推移集計』東京都の人口推移をコーホート推移と照らして時代の動きを見る-その5

【2000年-2005年】はさらに民間のマンション供給が大規模に進みます。2004年多摩ニュータウンで初めて24階と25階建ての超高層タワマンが登場します。ローレルスクエア南大沢6番館と7番館です。406戸の中低層取り混ぜての団地ですが、配置に苦心が観られて建築的には面白い団地です。こうした民間開発が始まると多摩ニュータウンには一挙に大規模マンションが登場します。これまでの公的な開発が計画的というか段階的に始まったのとは違って、土地の仕入れができる度に大規模開発を行うという流れです。バブル景気で遠のいた庶民の住宅も手に入れやすくなり都心回帰は進みます。首都圏での住宅供給は2000年から2005年に掛けては年間8万戸を超えています。

この景気を「いざなみ景気」と言うそうですが、経済学入門でも「2002~2007年の景気拡大の時期は、俗にいざなみ景気と呼ばれます。」とあります。とは言え、庶民感覚からすると景気高揚の実感はありませんでした。政府では「第14循環」と呼び、「戦後日本の景気循環で内閣府が定義した期間である。」としています。期間的に2002年2月から2009年3月までの86ヵ月間を指すそうです。その間消費者物価上昇率はマイナスが続き、まさにデフレマインドが充満します。物余りの時代ですから安価になった住宅も売れたのです。

2000-2005年のコーホートを見ますと、たしかに人口流出は止まったようです。20代後半から50代前半に見られる住み替え動向は安定しました。高齢者の減少は死亡もあるのですが地方への転出要望は引き続き潜在しているので世代全体の高齢化とともに高齢者の転出に拠る減少は多くなってきます。他の調査では都内では対応できない高齢者施設入居に、地方や郊外地を求めて移住するケースもあり、団塊世代の動きとともに増加することが想定できます。それも団塊世代が終末を向けかえるまでなのでそれほど遠くはありません。

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2017年7月13日 (木)

『国勢調査推移集計』東京都の人口推移をコーホート推移と照らして時代の動きを見る-その4

バブル崩壊以降の日本経済は低迷します。失われた10年が20年になりました。デフレに関する書物も多く出て、私もかなり読みましたが日本経済は全体的には堅調で国の純資産も多く健全です。しかし、格差が広がりました。世界的に観れば「所得格差」は少ないとも見えますが、子どもの貧困や正規雇用と非正規との格差問題など社会のシステムが不均衡になりつつあります。そんな時代に限って震災も発生します。

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【1995年-2000年】は阪神大震災から始まりました。バブル経済崩壊で大量の売れ残りマンションの処理で困った時代です。バブル期に大量の資金を不動産業界に流し続けた住専処理問題が浮上しました。拓銀や都銀初の破綻、長銀や日債銀などの破産も尾を引いて日銀はゼロ金利政策を採りました。金利をつけると債権が膨れ上がるので、ゼロ金利は銀行を守る打ち出の小槌だったのです。おかげで住宅ローン金利も低くなり、マンションブームは続きます。

多摩ニュータウン開発も欠陥マンションとなったベルコリーヌ南大沢の最後の分譲団地が1999年に214戸が供給され、2000年に75戸「南大沢学園瑞樹の丘-1」が供給されて公的供給は終わりを告げます。同時に民間ディベロッパーに拠るマンション開発にシフトしていきます。稲城市若葉台地区の大規模民間マンションの入居が始まりました。その後は南大沢でも公団が分譲用のマンションを賃貸で活用するという手法で、公的高級賃貸マンションが登場します。

東京からの人口流出も次第に少なくなっていきます。都心回帰などが言われ始め、都心部でも手の出せるマンションが現れ始めました。1999年54階建ての大川端リバーシティ21・センチュリーパークタワーが供給され、東京都でもタワマンの始まりです。都心居住の動きが急速に進み始める序章なのです。

コーホートを観ますと25歳までの転入が増えて、25歳以降の転出が少なくなります。次第に労働力の都心回帰が始まっています。都心部の地価の減少が人を戻すという動きです。人間の特性ですが込み入っているところが好きなんでしょうか・・・。

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2017年7月12日 (水)

『国勢調査推移集計』東京都の人口推移をコーホート推移と照らして時代の動きを見る-その3

【1990年-1995年】はバブル経済の崩壊です。ウィキペディアによると「1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの景気後退期を指す」とのことですが、まさにその時代です。企業内失業者が溢れ、経済が破綻して低迷します。私の業界からすると付き合いのあった「フジタ工業」が整理されたのは印象的でした。

長期デフレという入り口から、金融公庫の金利も3%代と最低金利となり第六次マンションブームの始まりでもありました。多摩ニュータウンでは大規模団地の供給がバブル崩壊で売れ残りが増大し、最終的には7割引きというバルクセールで売り出されて夢のマンションは二束三文になりました。その時、バブル期に購入した居住者はたまらない。売り残りを処分すると聞かされた購入者は「カネ戻せ」と言いたいのを抑えて「口止め駐車場整備」で我慢したという噂も飛び交ってきました。

バブルは崩壊したものの地価も高値から急降下して、再び揺り戻しがあり庶民の心を揺さぶります。「またバブルが来たら買えなくなる」という心理はさらに続きます。それがマンションブームの原因でもあるのですが健全な経済ではありません。

改めてマンションブームを整理すると「1963~64年」第一次マンションブームです。東京オリンピック開催年です。続いて「1968~69年」が第二次マンションブーム、いざなぎ景気に当たります。そして「1972~73年」第三次マンションブームは第一次オイルショックの狂乱物価時に起こります。多摩ニュータウン開発初期にあたり入居者も混乱しました。

マンションブームも経済の動きと連動します。第四次マンションブームは「1977~79年」第二次オイルショックと連動します。さらに「1985~87年」第五次マンションブームはバブル景気の前に起こります。そしてバブルを超えて第六次マンションブームです。バブル時代には大量のマンション供給でしたが、あれは「ブーム」ではなく「クレイジー」と言う感があります。

東京の人口はまだまだ転出も続きましたが、1990年から1995年のコーホートは郊外移住の結果が明確に出ています。逃げ足はバブル期と同様な動きで、住宅価格も十分には低下していないままに新規住宅供給が進んでいきました。

多摩ニュータウンではこの頃から町田市域の開発が始まります。東京都の肝いりの軽工業団地はいつの間にかマンション用地になり、ホームセンター等の量販店が林立し、老人ホームも立ち並んだ特別な地区になりました。計画通りに進まないのが計画のようです。

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2017年7月11日 (火)

『国勢調査推移集計』東京都の人口推移をコーホート推移と照らして時代の動きを見る-その2

【1985年-1990年】はバブル景気の始まりです。1988年急速の地価の上昇とマンション価格の上昇で庶民の住宅取得は遠のくかと思いきや、高騰したマンションを高倍率でも買う人々が溢れました。当時の庶民には「この機を逃すと一生住まいは買えないかもしれない」という逼迫感と、手持ちの資産価格が俄に急上昇したので「この際、資産を増やそう」と思う買い替え需要意識を「一億総不動産屋」と揶揄された時代でもあります。

都心の土地が地上げにあって郊外に移住することも法律が後押ししてしまいます。多摩ニュータウンでも都心部から高齢者が終の棲家を目指して引っ越してきました。親の資産売却を充てにした二世帯マンション、都心の老朽家屋を売り払ってのプール付き高級老人ホームも東京都住宅供給公社が販売したバブル経済下の住宅供給の一つでした。そして大量のマンションが供給されましたが、職人が足らなくて外国人労働者を大量に採用したり、現場の生産性の向上という方便で「シャブコン」というしゃぶしゃぶの水の多いコンクリーが使われて、最後には建替しか無いという欠陥住宅の不幸を生みました。

その頃の東京への人口集中は学生などの転入はあるのですが、バブルで都心から追い出される人が跡を絶ちません。先の地上げなど都心から郊外への移住を止む無くさせました。下町の工場や湾岸の倉庫群なども整理されて宅地化していった歴史があります。そんなことで世代を通じて東京から郊外へと押し出された時代です。特に大学などを卒業すればそそくさと東京から離れていきました。その流れが多摩ニュータウンにも来たのですが、埼玉、千葉、神奈川に流れました。

こうしてみると首都圏の人口は保たれているのですが東京という都心部を持つ地域が人の暮らしを寄せ付けない地へと変貌していったのです。バブル経済という急激な地価の上昇がもたらした悲喜こもごもを今にして思うと、罪な経済現象だと思うのです。これもまた「人災」であると、人間の愚かさというか欲深さというかを感じてしまいます。

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2017年7月10日 (月)

『国勢調査推移集計』東京都の人口推移をコーホート推移と照らして時代の動きを見る-その1

東京都の人口は他の道府県よりも群を抜いて人口増加が続いています。それでも平成9年(1997)くらいまでは低迷を続けています。その年、消費税が3%から5%に上昇します。住宅の駆け込み需要が発生するのですがデフレが日本経済を沈滞化させていますから、住宅価格は安定しています。それに金利が2%台まで下がりましたので、マンション購入者も増え続けます。そして東京の人口は増え始めました。こうした流れを年代別の人口の動きに着目しました。

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統計局のホームページからダウンロードしたデータに「第3表 年齢(5歳階級),男女別人口及び人口性比 - 都道府県(昭和55年~平成27年)」があります。昭和55年(1980)~平成27年(2015)の国勢調査集計が都道府県別に5歳階級ごとの人口が計上されていて、5年毎のコーホートをグラフ化してみると、その時代の背景が見えてきます。これを時代ごとに分けて検証しようと思います。

【1980年-1985年】は第二次オイルショックのあとで、ゼロ成長時代で売れにくくなったマンションに勾配屋根や外壁タイル、さらにはオートロックなどの付加価値を加えて何とか市場を拡大したいという動きがあった時代です。多摩ニュータウンでは多摩市落合・鶴牧地区の入居、八王子市南大沢地区の入居開始時期になります。地価高騰で住宅価格も上昇していて東京から埼玉、千葉、神奈川という首都圏郊外に移住していました。

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2017年7月 9日 (日)

旅日記 中国 福建省「田螺坑土楼群」

24°35'13.4"N 117°03'20.9"E

厦門は二度目だった。2009年5月に行った動機は、以前から客家円楼についての東京芸大学の茂木計一郎教授が出版した報告書『中国民居の研究 ― 方形 土楼と円形土楼』との出会があり、集合住宅の原点だと思いこんでいた経過があります。そして2008年、福建の土楼として、ユネスコの世界遺産に登録されたのを機会にHISが2万円代の客家楼見学3泊4日のツアーを出していたので、これを機会にと友人を誘って出かけたのが始まりでした。

その時は代表的な客家円楼である二宜楼を見学したのですが、どうも今一度他の客家楼も視たいと思い2012年5月、今後はオプションも選ばない安価なツアーに参加しつつ、個人単独で「田螺坑土楼群」を見に行ったのです。1日コースですがランクルで客家巡りは堪能できました。また行きたいとは思っているのですが、現在、中国の国情はあまり良くありません。そんな事情の中に入っていくのは好きではないので触手が動きませんが、今しばらく中国を観察して機会を作りたいと思っています。

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2017年7月 8日 (土)

『国勢調査推移集計』2011年3月11日の原発事故に由来する人口移動に着目する

放射能が飛び散ってすわ子供が被爆して甲状腺癌を発生させるというので、緊急避難で北海道や沖縄まで避難した子供連れの世帯があるのです。当時は父親を置いて母と子が沖縄に移住するなどのニュースがパニックになるほど飛び交っていました。その結果として国勢調査にも人口移動が現れていることは以前のブログでも紹介したと思うのですが、改めて福島県と沖縄県や北海道のコーホート結果を利用して確認してみたいと思います。

まずは福島県ですが、2005年から2010年のコーホートを原発事故のない通常の動きだとしますと2010年から2015年のコーホートは2011年を挟んでいるので被災時の人口移動が見えてくるはずです。その内、0歳から4歳の子供が5歳から9歳になる年代、恐らく学齢期前の子どもたちだと思えますが、6,211人も多く転出していることがわかります。同様に5歳から9歳の子供が10歳から14歳になる年代が4,934人、同様に10歳から14歳の子供が15歳から19歳になる年代が1,925人と移動が顕著に現れています。子供と対応してその親世代の移住が当然あるのですが30歳から44歳までの動きがその親となると思われます。確実に移住しているようです。

さて、その人達がどこに移住したのでしょう。とにかく遠くにという気持ちだと思いますから、沖縄や北海道などは避難地として選ばれるはずです。細かくは移住地データが他でもありますので調査できるのですが、ここではあくまでも大掴みで把握してみようと思います。そこで沖縄ですが、たしかに子供の数が増えています。当然その親の数も伸びていて移動があったと理解できます。詳しく見ると福島県からは各年代に渡って移住者が各県へ散らばっていきました。生活のことを考えれば遠方と言っても那覇市や福岡市や札幌市などの拠点都市に集中しているとは思うのですが、何れにしても「緊急避難」というとんでもないことを強いられたのですから悲哀である他はありません。

その後、避難指示などが次第に解かれていますが戻る人は少ないのです。避難までの指示が迷迷したという紆余曲折があり、結果として避難が方向違いや無理矢理感が抜けない後遺症となった以上、もう行政や東電を信用できない状況になっているに違いありません。「覆水盆に返らず」です。被災地で除染作業を続けているNPOの友人の努力はなかなか報われないのです。あまりにも「オオカミ少年」が居すぎたのかもしれません。

福島県

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沖縄県

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北海道

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2017年7月 7日 (金)

『国勢調査推移集計と社人研の未来予測』高齢化は幸せを齎すか

高齢化が日本を不安に陥れているのですが、実は希望の高齢化だという気付きが欲しいところです。2015年から2065年までの50年間、26.6%から38.4%と高齢者率はずっと増加し続けますが、高齢者の絶対数は2042年の39,352千人をピークに減少し始めます。

2015年では33,868千人ですが27年で5,484千人増えます。そして2065年には33,810千人になります。ピークから23年で5,542千人減ることになります。27年間で増えたものが23年で元戻りになる計算です。実は高齢者の実数は急減します。増加のスピードより減少スピードの方が早いのです。

将来の少子高齢化が予測された時代「団塊ジュニアに用意された高等学校を高齢者施設に利用できるように設計をしよう」などの取り組みが有りました。現実にそのような使い方がされているのかは判らないのですが、将来は子供が減って使えなくなるという予測を立てて施設を整備することが時代に即していたのです。そこでは高齢化が課題でした。

ところが未来は高齢者の減少で高齢者施設が余る時代が来るのです。それも今からたかだか25年後です。現状の建築技術で施設を整備すると間違いなく100年は使える建物が建ちます。しかし、その建物を利用して商う高齢者ビジネスの賞味期限は25年だとすると、今から投資する人は少ないでしょう。最近整備されている高齢者施設でなかなか先進的だと思っているのに「桜美林ガーデンヒルズ [サービス付き高齢者向け住宅]」です。建設途中も何度か観ていたのですが、基本的に木造2階の建物で4月20日にオープンしたばかりで2棟が「サービス付き高齢者向け住宅」です。センター棟には、1階にデイサービス・訪問看護ステーションがあり、レストラン付きです。その2階には一般賃貸住戸(8戸)があり、別棟に学生向け賃貸住戸(32戸)と併設の多目的ホールがあるという作りです。つまり建物はせいぜい30年から35年で建て替えるつもりで、さらに高齢者ニーズと学生寮とがバーターでも使えて、さらに多様なニーズに応えられるような一般住戸もあるという総合賃貸コミュニティという形態です。場所的には交通利便性はそう高くないですが、将来的には小田急多摩線が相模原駅まで延伸されれば付近に駅ができそうな状況でもあります。そうなれば便利な施設になり、さらに未来は明るい計画です。

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2017年7月 6日 (木)

『国勢調査の歴史』日本の国勢調査(人口センサス)を通算で観てみよう

今では総理府統計局のホームページを検索すれば国勢調査を一覧することができます。

http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL02100104.do?tocd=00200521

大正9年の国勢調査結果から平成27年の国勢調査まで推移と調査内容や集計結果がすべてわかります。それも日本の国勢調査は5年毎ですから貴重な資料です。ただ、5年毎でなければならないのですが昭和20年の国勢調査だけがありません。それを補完するように昭和22年に臨時国勢調査が行われています。総務省統計局のホームページでは『昭和20年(1945年)国勢調査は、「昭和20年は、国勢調査を施行すべき年であるが、現下の緊迫する情勢に鑑み、帝国版図内一斉に国勢調査を施行することは困難である。」として、---中略---中止されました。』とあります。戦後の混乱期には無理だったのです。その後、推計として昭和20年のデータが組み入れられましたが、沖縄県のデータだけは集計されませんでした。沖縄戦が如何に悲惨だったかを彷彿とさせます。

そんな人口センサスを大正9年から平成27年まで男女別と年齢3区分別に積み上げグラフで示しました。人口では約2.3倍の増え方です。男性と女性の割合は男性優位が戦争を契機に逆転しました。男性が戦地で死亡したことが原因です。不思議にその状況は戦後もずっと続き、バブル経済くらいまでは一定の差があったのですが、その後は女性の数が伸びてきました。出生時のコントロールはできないですから、高齢化して長寿の女性の伸びが原因だと思いますが、戦前戦後の家父長時代が終焉して、女性が尊ばれる社会になりつつあるようにも見えます。

国勢調査データでは2010年調査をピークに人口は減少し始めましたが、それまでの成長スピードを減少のスピードと写し鏡にすると今後20年はそれほどの人口減少は感じないだろうと思うくらい緩やかです。基本的には団塊世代が死亡して行くスピードで人口減少が進むという捉え方で間違いないと思うのですが、高齢者の塊がなくなっていっても子供を産める人口が減っていけば自然に人口は減少していきます。少子化が長く続いた結果、子供を生産する力も減退したようです。

結果として日本の人口は急速に減少していき、2045年には1億人を切るのです。昭和40年45年レベルまで落ち込んでいくのですが、多摩ニュータウン開発が始まるころの日本の人口とよく似てきます。あの時代、団塊世代は20歳。新全国総合開発計画時代で、日光でリゾート開発や多摩ニュータウン開発で測量のアルバイトなどしていた記憶が蘇ります。希望を持って生きていたわけではありませんが、若かったので・・・。

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2017年7月 5日 (水)

『国勢調査の歴史』日本の国勢調査(人口センサス)は歴史があります

「日本国の国勢調査はいつから始まったのでしょう。」と思ってネットを検索すると素晴らしい解説が現れます。そのなかで基本的に抑えて置かなければならないのは「総務省統計局」の説明です。

 

http://www.stat.go.jp/library/shiryo/guide/hanashi5.htm

 

そこには『「国勢調査ニ関スル法律」の制定は明治35年(1902年)』とあります。その後戦争で実施が遅れます。そして第1回最初の国勢調査が行われたのが大正9年(1920年)です。米騒動が落ち着いて関東大震災の前という時代です。調査はその後5年毎に行われています。これは凄いことです。「十年一昔」という言葉からも10年単位の調査では時間差がありすぎて傾向分析が雑になるという印象があります。

 

とはいえ世界では10年毎に行っているのが主流のようです。アメリカもイギリスも南米も中国もインドも10年毎です。韓国は日本の影響もあって5年で行っていますが珍しい方です。確かに10年というのは切りが良いのですが詳細が解るというのは集計をやっている者としてはありがたいものです。5年毎に新たな状況が把握できるので強いて言えば1年遅れのデータであっても4年間の推移差として認識できる効果は大きいのです。たとえ調査年であっても5年前のデータですから「一昔前」ではないのです。10年だとまさに「一昔」のデータになり現状分析は難しくなります。

 

振り返ると、第2次世界大戦終了直後の昭和20(1945の国勢調査はありませんでした。戦争の後始末で国勢調査どころではないでしょう。815日に終戦で92日にポツダム宣言受諾、そして101日の国勢調査日は戦後すぐです。焼け野原での人口センサスはとてもできない相談だったのでしょう。互いに生死を確認しつつ、疎開している隣近所の安否を確認しながら、今いる人を調べていく仕事です。終戦時にはとても対応できなかったので昭和22年に臨時で行われています。

 

ちなみに当時は住民票もあったと思われますが、住居表示の所には住んでいないので実態主義の国勢調査が活きるのです。今では国勢調査と住民基本台帳の格差も少なくなっていると思われるし、国民背番号制が普及すれば国勢調査と同様のデータ整理も可能かなと思うのですが、生活事情などの関連情報は個人情報保護法でデータが一般開放できないということもあり、必ずしも国勢調査と同様の結果は利用できないようです。だから結局は国勢調査が今後も続くことになるのです。

2017年7月 4日 (火)

『平成27年国勢調査の小地域集計』山梨県北杜市の首都圏からの転入を改めて視てみる

北杜市と首都圏との人口移動を改めてクローズアップしてみたら、北杜市への転入人口が転出人口を大きく上回っていることがはっきりと見えてきます。以前にもお伝えしているのですが、グラフの示し方で統計結果の特徴がはっきりと見え理解も深まってくるので、今回は指標を揃えての男女積み上げのグラフに加工しました。見せ方として上下に並べての比較しやすいグラフ表示にし、さらに指標を揃えることでボリューム比較ができ、転入の多さが正確にクローズアップされた状況になりました。東京都の転入転出では概ね転出に対して2倍の転入があるのです。地方が都会よりも転入超過というのは北杜市の特徴です。

それを少し分解して解説します。まずは首都圏からの転出ですが、総数としては平成27年10月までの5年間の移動は1,207人になりますが男589人、女618人と多少ですが女性優位です。転出年齢は若い世代が中心になります。高卒や大卒で東京首都圏に進学や就職するのです。その他の年代での移動は少なくなります。一方、転入ですが総数2,225人で男1,164人、女1,061人と多少ですが男性優位です。ただし転出転入の年齢は相関していません。転入は総じてリタイア組が目立ちますが30代40代の働き盛りの転入者もあり、必ずしも高齢者が集中するという状況ではありません。子供の転入も多いので、おそらく実態としては働く場があるという印象です。都会から地方への新たな移住のニーズが有るのかもしれません。

就労実態はサービス業に増加が視られるのですが、高齢化やリタイアメントの受け入れに伴う医療介護サービスニーズの増加など、地域内での経済活動の変化に沿った高齢者の流入もあるのす。これらについては今後も高齢者に対するサポートビジネスや関連ビジネスが増えていくことと視られ、今後の北杜市の主要ビジネスとして発展していくと思われます。

北杜市は首都圏の高原リゾートとして発展している地域で、軽井沢や那須高原などと共にリタイアメントビレッジとして発展する可能性を高めています。また、首都圏からのリゾート地域として終末の余暇活動を体現する地域でもあり、嘗てのバブル的なリゾートではなく川や山を愛する自然志向のリゾート客や観光ブームに併せた地方の名店などの分布や農業と結びついた定住、さらに口コミやネット情報から広がる農産物の顧客など、多様なリゾートビジネスも増加しつつあるように思います。もちろん高齢者支援のサービス業も増えますが、総じて地域循環型のビジネスが生まれつつあるのだという実感に希望のある未来を想像します。

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2017年7月 3日 (月)

『国勢調査』平成27年の国勢調査データがようやく出揃った

先月の末2017年6月28日に平成27年の国勢調査の結果が発表されました。『従業地・通学地集計 従業地・通学地による人口・就業状態等集計』で、2017年4月26日 公表の『就業状態等基本集計(労働力状態,就業者の産業・職業など)』に続いて二段目の就業状態等の結果発表でした。これで平成27年国勢調査の結果がすべて公表されたことになります。2015年10月1日の調査から1年と9ヶ月の経過となります。人口の速報が出たのが2016年2月26日ですから、それから数えても1年4ヶ月です。全国集計(センサス)というのは大変な労力と期間がかかるものだと今更ながら集計に携わった方々に感謝です。

1億3千万人の日本でもこの程度の時間が掛かりますからインドや中国での統計はさぞや大変だと思うのですが、実際の人口センサスを知るのに参考論文がありましたので紹介します。(独)経済産業研究所の孟 健軍さんの論文ですが『中国の人口移動と経済発展 最新の人口センサスからの検証』とのタイトルで紹介されています。

http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/13j048.pdf

内容については『最新の 2010 年第6回全国人口センサスにおける人口移動データの考察を中心にし、中国における地域間の人口移動と経済発展の関係について実証分析する。』とあるように中国の場合、農村部から都市部への人口移動が経済にもたらした影響が大きいので、特にこうした捉え方となったのと思われますが、興味深い論文です。

中国の人口センサスは国が1949年に中華人民共和国が成立して以降の1953年に始まり、1990 年以降は10年ごとに実施し、直近の2010年人口センサスは6回目となっています。1945年に第二次世界大戦が終決して以降も国民党と共産党の内戦は続いていたし社会主義国の成立のためにはまだまだ混乱が続いていた時代です。国家統一のためにも人口センサスの実施は重要だったと思います。

一方、インドの人口センサスは10年毎に1の付く年に行われていてコンピューターで集計したのが2001年が始めてで、そのセンサスの特徴として『(1)調査員による面接調査、他計方式(2)調査票は1種類(世帯票25項目、家屋票28項目)(3)インドにおけるセンサス史上初めて、機械による全数集計』が紹介されています。

http://www.stat.go.jp/info/kenkyu/kokusei/pdf/fcensus3.pdf

こうした統計の実施として世界に共通するものはコンピューターの発達です。私も含めて日常的に統計データを気軽に扱えるのはオープンな情報開示とコンピューター、さらにはネットワーク技術の進化によるものだと痛感するものですが、これもみな平和な民主主義国家が成立してこそで、今後も平和な日本が続くことを祈るものです。世界の混乱を請けて日本がなすべきことも多いし、東京都の運営すらまだまだ緒についたばかりだという印象すら受ける都議会議員選挙結果に今後の民主主義を実感しているのですが・・・どうなりますことやら。

2017年7月 2日 (日)

旅日記 中国 天津駅前

39°08'02.1"N 117°12'15.2"E

10月22日から26日の旅である。当時業務の関係者が欄州の学会に出席すると言うので誘われたのだが、とても経費がたまらないので「北京あたりで合流というのならお付き合いしましょうか」という軽いノリで飛び立った旅。初めての北京だし、ついでに日本の企業が開発に参加しているマンション群があるので、それも見ておこうという雑学的な興味で行ってみた天津駅である。北京からはパスポートがないと買えない新幹線に乗って30分ほどだったか、最後尾の車両で降り立ったホームでは党員のお偉いさんだと思しきVIPの降車に一般客は通行止めを食らうような有様で駅前に出た。

駅前のとにかく開放されたような広場は「さすが」というなんとも趣旨もわからない感動とともにわっとただ大きい整然としたシンメトリーな、ごちゃごちゃしていないという見事な駅前広場に圧倒されて降り立った。日本では視たこともない、むやみに広い駅前広場はさすが共産党一党独裁国家でなければありえないような広さで迫ってくる。そこで駅前から振り向けば広い河川がゆっくりと流れていく。川幅が100メートルはありそうな「海河」である。ゆっくりと海に向かって流れる川面に釣り人が竿を垂れている。駅前の河川公園とでも言うのか、思い思いの終日(ひねもす)がダイナミックな国の動きとは他所に過ぎていた。

‎(2011‎年‎10‎月‎25‎日)

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2017年7月 1日 (土)

『東京都都市整備局 多摩ニュータウンの統計指標』多摩ニュータウンの人口推移と高齢化

「東京都都市整備局 多摩ニュータウンの統計指標」の最新データには平成28年と平成27年の比較が掲載されています。多摩ニュータウンを構成する八王子市、多摩市、稲城市、町田市の全体と多摩ニュータウン区域に属する人口や高齢者数などが示されていて貴重な情報です。これを集計したのが以前お知らせした多摩ニュータウン学会の報告にあるデータになります。

実のところは多摩ニュータウンの範囲は必ずしも地名や町丁目で別れているのではなく曖昧な部分もあるので、その集計は苦労します。例えば多摩市であれば多摩ニュータウン区域で整理されるのは「新住区域」と「区画整理区域」になります。基本的には「既存地区」を除く地区が多摩ニュータウン地区という表現になりますが、貝取や乞田など曖昧な地区も存在します。それを整理して人口や世帯数を集計するのですが、東京都都市整備局の集計方法はわかりません。私の集計方法は多摩ニュータウンの区域図を地図上で確認して区分する方法を採っているので、多摩ニュータウン区域の地図が間違っていると集計も間違うことになります。また、区画整理地区の区分には開発段階で「丁目」表記がされることがあります。そうなると既存地区との区分がさらにややこしいことになって困ってしまいます。まあ、そんなこともあるので、ある程度は曖昧を承知でアバウトに判断して集計します。

実は東京都都市整備局のデータが発表されるようになって、私の集計はサボっています。個々の町丁目の人口と世帯数をホームページから添削して集計する作業も大変なんです。そこで最近は「当たらずとも遠からず」と開き直っています。これがビジネスとしてお金をもらっているのでしたら人材を擁して正確を期することも出来るのですが半分趣味的にやっている計算です。ある程度アバウトでも許してもらえるのではと甘えています。

多摩ニュータウンの人口はとりあえず東京都におまかせするとして、さらに詳細について情報開示をお願いしたいところです。出来ましたらエクセルデータなどで開示していただければ嬉しいのです。何しろ素人研究では緻密なデータ集計は苦しいので、そのあたりを情報として開示していただくと助かります。担当の方よろしくお願いします。

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